昭和52年11月04日 朝の御理解



 御理解 第8節
「子供の中に屑の子があれば、それが可愛いのが親の心じゃ。不信心者ほど神は可愛い。信心しておかげを受けてくれよ。」

 信心しておかげを受けてくれよと神様の願いですね。ただ屑の子であればおかげを受けられると言う事じゃない。屑の子の自覚が出来て、その屑の子が限りない神様の御働きにより、おかげを頂き縋り願っておかげを頂いていく。いう縋り願ってと言う所が信心である。その縋る願うといわゆる信心しておかげを受けると言う事。ここ三・四日願う願いの信心、それはただ自分の困った時だけ願うという願ではなくて。
 親神様と言う、言が分かれば分かる程、願わずにはおれないという、もう自然に願わずにはおれないという。これは本当に親子というものは、そのどうにも出来ない、一つの絆というものがあるんです。それをその絆に縋って、もう当然縋っていくと言う、言うが当たり前、そこの願いをその切実な、いわゆる切実なというか、当然というかもう親子だからと言うところ。
 先日、若先生たちが東京から帰って参りました時に、一番下の孫が一恵と言いますが、あの子だけは置いて行っとりましたから、もう大変おかげを頂いて、もう全然手がいらず、家内がこげな楽な子はおらんと言うくらいで、もうお婆ちゃんにまあ本当になついてしまっておるかに見えた。ところが東京からお母さんが帰ってきてから、ここで「お母さんにおいで」と手を出すけれどもジーッと顔を見とってですね、行こうとしないんです。そして何分かジーッと顔を見とったがね。
 泣きだしましてね、そして何かこう、言葉で言うならば、「何時間もほうからかして。」ちゅうような態度をとって、そしてもうしがみ付いて、もうお婆ちゃんが「来い」と言うても、誰が「来い」と言うても行かんのです。しかしまあ本当に親ちゅうのは、どうにもこうにもしょうがない、ようなものがやっぱある。いわゆる親子の絆というのは、もういくら可愛がっておる、お婆ちゃんであろうがなんであろうが、もう親には勝てんと言う事ですよね。
 初めはジーッとこう眼を据えて見よったです。それで見忘れとったじゃろかと私思いよったら、そんで泣き出してですね、そしてもうしがみ付いて離れん、もうこう首について、なあお婆ちゃん、今度ちゅうても絶対行かん、あそこに一日余りは絶対離れませんでした。もうほうからかされちゃならんというとじゃないでしょうかね。だからその位な、あの情というものが、親子の間に通ってくれば、縋ると言う事は当然の事であり当たり前の事であり、親も嬉しいのであり子も楽する事になるのです。
同時に、その最近申しておりますように、親なればこそ、叩きもすりゃあ、叱りもすると、こう言うところです。私はこのことを、ここ三・四日もう考え続けておるんですけれども。今朝から御夢とも御神眼とも起きがけに頂いたんですけれども、親が子供に「あんたがごとありゃ好かん、こりゃ好かんちゅてその何でも食べんならば、もうご飯な食べさせん」ちゅうてからそのご飯茶碗を取り上げたところを頂いたんです。いわゆる子供が好き嫌いをするわけですね。
 「もうあんたごと好き嫌いをすんならもうご飯な食べさせん」ちゅうて、「何でん食べにゃ出来ん」。と言うて栄養が片寄るというわけでしょう。「もうあんたごと好き嫌いすんならもう御飯な食べさせん」ちゅてからその取り上げる。それは食べさせたくないからじゃないでしょうが。食べさせたいというよりか、もう一つ向こうに、いわゆる片寄らない栄養を与えたいばっかりの取り上げでしょうが。私はそれを頂いて最近、親子の理とか情とかと言う様な事がね。
 もうこの位あのうはっきりと、そして誰にでも分かるような表現で教えて下さる、御理解はないなと、今朝からつくづく思わせて頂いております。合楽のおかげの現われ方、これは、私の上に現われておるおかげというのは、言うならば合楽のおかげは足ろうたおかげと言われております。まあ言うならば貧争病がない。しかも真善美輝くようなおかげを言うのは、合楽のようなおかげの現われ方をいうのであろうかと言われたり思われ、私が思うのですけれどもね。
 お金には不自由しござらんけれども、家庭の上にとか、家庭の上にはこっとると言わんごとおかげ頂いちょるばってん、いつもお金に貧乏してござるとか、病人があるとか、何ともなしにこうバランスが崩れた。これではね、本当の幸せと言う事にはならんのです。例えばならお祭り一つ頂かして頂いても、もう全ての点にバランスがとれている。典楽なんかがここで、ああして段々たくさんの典楽楽人が出来て、又は少年少女会のバンドなんかでも段々ああした、本当に足ろうていくという。
 いつの場合でも足ろうとるようだけども、明くる年になるともっと足ろうとると言う事です。ならここの楽の場合なんかでも、もう言うならば琴・太鼓・笛・笙・篳篥・鐘鼓・太鼓と言う様にです。あれば作らんならんあればせんなんじゃろと、いつの間にかいかに楽器があってもですよそれをなら使う。その御用を頂こうという人がいなかったら出来ないことです。楽器はあるけれども言うなら楽人がおらん、楽人が居るけども楽器が足ろうとらん。それを足ろうとらんというのです。
 完璧と言う事は無いにしましても、合楽の場合にはこう全ての点に、段々足らいながら、しかも成長一途をたどっとると言う事なんです。それは足らんもんだらけですけれども、実際はね。けれどもあのその時点時点で、はあ本当におかげ頂いとる。おかげ頂いとると思わにゃおれないようなおかげの現われ方。それはどういうことかと言うと、私が好き嫌いをしないからじゃないかと思います。私も実は大変好き、食物でもそうでしたが人間でもそうでした。
 もう好きなタイプと好かんタイプとが二つピシーッと分かれとる。もうあげんタイプはフルフル好かんちゅうごるとが、私は以前そげんでした。ところがおかげを頂いて、段々精進させて頂とりましたら、もうこげなタイプが一番好かんというごたるとが一番好きになっていきよるとは不思議でたまらんです。もうこれは子供の時からそうでした。もう鉛筆なんかでも、他の色は絶対使いませんでした。もう赤と緑色と黄、私は他の鉛筆はもう人にやってしまいよる。
 でなかったら人と替えて、もう他の色は好かん。友達でももう自分のただグループを作って、もう自分の性に合うたとじゃなから付き合わんと言った様な、そのまあ言うなら好き嫌いが多かった。 食物はもちろん大変もう肉が食べきらん。魚が食べきらん。「お前はもうお寺のぼんさんになっとんなりゃでけんたい」と、言われよった。それが肉も頂くようになり、魚も頂くようになり、もうそれを食べなければ、ひもじい思いをせんならん。頂いてみると美味しい。食べず嫌いであったことが分かる。
 もう食物なんか特に北支に、あちらへ参りましてからは、「もうにんにくは臭いけん」とかね、「肉てんなんて食べん」てんなんてん言いよったら、食べるのがなかですから、よんどころなし、やはり食べなければできずに、食べてみたらやっぱ美味しい、それで何でも、言うならば片寄らん、言うなら栄養を頂いておると言う事になるのです。神様がね、「あんたがごと食べず嫌いするんなら、もう御飯ば食べさせん」と取り上げられておる自分を一つ今思うてみてご覧なさい。何を取り上げられておるか。
 言うならあれも不如意、これも不成就と言う様なものが、もし皆さんの周辺にあるならば、あなた方がまあだまだ食べず嫌いをしておるからです。これは親子の情をもって説いてるんです。親だからこそね、親だからこそ食べず嫌いをすんなら、「あんたがごと好き嫌いをすんなら、もう御飯は食べさせん」。もう何でも食べさせたい、栄養の片寄らないおかげを頂かせたいという親の情がそうさす。
 「もう食べ切らんもんは無理に食べさせんでん」というのでなくて、何でん食べさせたい、ですから一つ今日の御理解を、いわば理解して頂きたいと思います。自分の周辺にです。好き嫌いのない、そこんところをそれなら合楽ではね、すべての物を御の字を付けて、すべての事柄を御の字を付けて、この事には御の字を付けられるけども、この事には御の字が付けられないということであってはならない。もうこれほど言うならば、日々その事を頂とるのだけれどもです。
 御の字を付けたり付けなかったりと言う所がありはせんだろうか。「もうこれだけ私はでけん」ともう一遍に摘み切るように言う人がある。だから本当言うとです。もう本当言うと、自分の好かない、自分の嫌いという物の中にです。本当はおかげがあるです。これは不思議です。これは私が何十年間の信心体験から言えれることです。もう好かんと言うような、例えば人でもです。という人を本気で好きになろうとすると、段々その人の良か所が見えて来るです。
 そしてほんにこげなよか人ば、どうして好かんじゃったじゃろうか。と言うところがその好かじゃったという人が好きになった時に、もう本当におかげをさっさと運んでくれます。これは人間だけじゃないです。事柄でもそうです。お金には強いけれども病気には弱い。病気には強いけどもお金には弱い。理は同じことですからね。どちらでも言わば神意を悟らせてもろうて、親心を分からせてもらう手立てにしていかなければいけんのです。そのためにです。
 私はお互いがもういよいよわれ屑の子の自覚に立たなければいけないと言う事です。神様は「屑の子ほど可愛い」と仰る。最低の自分をいよいよ見極めることだと思うです。そこから皆が言うなら素晴らしい人に見えてくるし、素晴らしいものに見える時に、それをなら大切にせずにはおられないと言う事になりましょう。これはどうでも一つそのジ-ッとこう親がこう見とったら、やっぱこれはお母さんであると言う言が分かったらです。もうしがみ付いて離れないと言う様な一つ工夫をね、しなければいけません。
 理屈の上では成程親だな、親神様だなと言う言が分かっただけではいかん。もうしがみ付いて離れられない。そのためにはです。屑の子ほど可愛いという、自分ほど自分のような、例えば泉尾の三宅先生のいつもお話にでてくる「自分のような鈍な者だ」とこう言っておられる。それを神様がかくもおかげを下さる。それには「自分が願って願って願いぬく」と言われる。「自分のような鈍な者、自分のようなつまらん者を、神様がおかばいにおかばい下さってこういうおかげが受けられる」とこう言っておられる。
 だからそういう例えば心情をです。実感として自分の物にすることの為に、まず屑の子の自覚。自分もうそれこそ日本一の鈍な自分だとね。日本一言うならば汚い自分だと、「自分のような悪人があるだろうか」と親鸞が言われたと言う事を聞きます。もう大悪人だと自分を悟られたと言う。自分というものをギリギリの所に置かせて頂く所からです。言わば屑の子ほど可愛いという働きが生まれてくる。そのくずの子と可愛いというその働きをです。私共が頂いたときにです。
 親様じゃなあと言う事になるのです。そしてすがらずにはおられないと言う事になる。だから神様がまた、親子の情を持って、出来んところは出来たかのようにしておかばいを下さると言う事になるのじゃないでしょうか。自分がままになると言う事だけに、ただがむしゃらに参ったり、拝んだりするだけじゃなくて、神様がままになられるという生き方、それをここでは大祓信行に懸けております。果たして本当に親身の、無条件の自分がもらわんなん、頂かんならんというのではなくてです。
 もう当然お道の信心させて頂いておるならば、当然のこととして神様がままになられる。神様が生き生きとしてみえる。神様に栄養を送って差し上げれると言われる程しの大祓信行なんです。条件がない。ただ一心不乱に大祓信行を唱えさせて頂いておると、神様が生き生きとして見える。その神様が生き生きとして見えたところで、こちらも生き生きとした心で、おすがりをするのですから、おかげが受けられるです。
 毎晩大祓信行を本気でやらせて頂てご覧なさい。もう一年たったっちゃ、二年たったっちゃ、大祓一つまだ空で上げきらんちゅう人がありますよ、もうそのくらいな不熱心さです。成程これじゃおかげが受けられんと言う事を、そう言う所からでも分からにゃいけんです。神様が一番喜んで下さるという、それならその大祓をですよ。もう二、三日本気で読んだら覚えられるはずです。どのくらい頭悪かてこれは私が頭悪かですけども、覚えようと思たら覚えられるです。




 私は熱心と言う事はそう言う事だと思う。又どうでも親神様だ、またその氏子我と言う言がです。頭だけではなくてもう心からもう身体全体、成程親神様だなあと分かった時にしがみ付いて離れられない。いわゆる二人行脚とはそう言う様な所から本当に生れてくるのじゃないでしょうか。神様も離されん私共も離されん、そういう神様を頂きたい。そこからは願わずにはおれん、すがらずにはおられない。そして三宅先生じゃないけれども、いよいよね、もう鈍物我と言う事になってくる。
 いわゆる屑の子の自覚が出来るから、その屑の子ほど可愛いんだとこういう。これは大体有難いことなんだけれども、感情の上では有難く言えない思えない。自分の心が有難いことであると言う事を、訳を聞きゃ「そりゃあんた却って御礼ば申し上げんならんことじゃないか」と言う様な事が分かるけれども、御礼が申し上げられない。やっぱりさびしい。やっぱり腹が立つ。と言う様に、自分の心が自由自在に使えないと言う事は、結局心の不具者だということなんです。
 手を上げようと思うても手が上がらん。足を上げようと思うけども足が上がらん。心の不具者でしょうが。だから本当に「片輪者われ」という自覚です。「鈍な私だ」ということです。「屑の子われ」という事なんです。だから、そこから私のような者が、そして精進させて頂くことが、私の周辺にいけないもの、要らないもの、好かん物がいくらもあるけれども、その好かんとか、いらんと思っておったそのことをもです。ここですいらん物だんじゃない。これを有難く頂いていかなければならない。
 好かない食物じゃない。好かない人じゃない。好かん人は好かん人ほど、却って一つ本気で好きになる工夫を、手立てを考えてそれはもう不思議です。どんな嫌な人でも好かん人でもこちらが本当に好きになる気になるとです。向こうの方が好きになってもらうです。するとそっから何かが通うて来るようになるです情が。そして本にこげな良か人がどうして好かんち思うとったじゃろうかと。結局自分のわがままである事に気が付きます。食物を食べるとか好かんとか、嫌いとかというのはもう絶対わがままですよ。
 なあに食物がなかごとなってみなさい。どげん好かんもんというもんでも食べます。食べてみると美味しい。そして却ってそれが栄養になると言う様な、言わばおかげになってくるのです。私今朝からその御夢に頂いたという、「あんたごと食べず嫌いすんならばもう御飯な食べさせん」と言うて、親がご飯茶碗をこう取り上げておる。憎いからじゃないでしょうが。子供に言うならば、栄養の足ろうた栄養を付けてやりたい親心でしょうが。お金に不自由せんばってん、家庭の不和の為に。
 教会なんかでもそう言うところががありますよ。教会であるのに夫婦中が悪かったり、親子の中が悪かったり、金光大神の働きというものは生き生き、その教会に現われておるけれども、そういうおかげが受けられてないと言う事。だからなら合楽の大坪一家を見て下さるといいです。複雑といえば、このくらい複雑じゃないぐらいな家族が一緒に、言わば所帯を持っておるわけですけれども、何とも言えん雰囲気の中にです。神様がおかげを下さるんです。
 家庭円満なら円満の上にも、財の上にも健康の上にも、いわゆる足ろうたおかげ。それが段々垢抜けしてくると、それが真善美に輝く程しの物になってくるです。昨夜昨日、柿狩りに行って、焼き物のお土産を頂ましてね、素晴らしいしかも安いです。唐津から出てきた人げなけん、もうそのまま唐津焼です。絵が上手いです、そしてそれを頂いたから、その茶碗を、あの披露して繁雄さんがお茶を入れておられましたから。
 なら「豊美達も呼んで来てくれんの、そしてこれを豊美達にこの茶碗をやろう」と言うて、あの昨夜遅くからでした。あの皆部屋に呼んでから、それからお茶を頂きました。そしたら威智雄さんが「親先生今日は、私達の結婚記念日でございます」ちゅうの。「はほんなこつ十一月三日じゃったね」ちゅう様な事で。ここへ修行にきてから、まだ一遍も私の部屋に呼んでからお茶でも出したこともなかったんです。
 けれども、たまたま私があの人達夫婦を部屋に呼んでですね、美味しいお茶を入れて、美味しいお茶菓子を出して、そのまあ、これはあんたとこの結婚記念日じゃったから、今日は神様がこういう催しをして下さったんだなあと、あの気が付かして頂いた。そういうような働きがいつもあってるわけです。ですからもう親子でも夫婦でも、そのいろんな御都合、お繰り合わせを頂くから、このように拝み合うていく雰囲気というものが、いつも出来てくるわけなんです。
 昨日は期せずして、あっちこっちの教会から、もったいないような手紙を頂いた。昨日午前中です。電話があの大阪の中近畿ですね、大きな教会が沢山ある所です。あちらの教務所の、教務所長先生から、電話がかかってきて、その是非先生のお話を頂きたい。こちらに来て頂きたいけども、合楽の先生が全然動かないことが分かった。そこでこちらから十二月の十五日に行きたいと思いますと、今度はもう教務所長を始め幾人かの先生たちが来るんです。
 で私ちょっとこう留守しておりましたから、又後でご返事をすると言う事であったから、まあご遠慮致しましたから、十五日の日に見えることだろうとこう思うです。それからまたあの、幹三郎にはがきが来とるのを、食堂でちょっと見せて頂きましたが、もう本当にあのう合楽の最近の、その評判というのはね、素晴らしいあれで君は同期のあれから来ておるんですけど、もうあの幸せだと言うてまあ色々書いておるが。
 昨日あの泉尾の二番目の息子さんで、東京の常盤台に布教に出ておられる先生からも、いわゆる「おかげの泉」で大変おかげを受けておられるという、もう本当に真からの御礼が来とりますが。それから、金光教何教会か、からも手紙がきとるとには、もうこんなことが書いてあります。「拝啓親先生、今度は開教満十周年記念大祭おめでとうございます。私共のような者にまでも、記念大祭の御比礼に浴し、どのように御礼を申し上げてよいやら分かりません。有難うございます。有難うございます。
 私共の心の中をどの様に言葉にしてよいやら分りませず、真につたないお手紙ではございますが、どうかお許し下さいませ」と。「実はこのお手紙を書かせて頂こうと机の前に座りましたところ、ウトウトとしておりました時、夢で見せて頂いたのでございます。御夢の内容は、この大阪の地で。合楽理念の講演会が開かれておる所でございます。何万人という人達が、合楽理念を説かれる、親先生の御姿に、引き込まれておるのでございます。そして親先生の講演が終り。
 今度は合楽教会の信者さんが、合楽理念による信心生活の素晴らしさを、発表なさったのでございます。何万人という人達の絶大な感動のうちに、合楽理念講演会は終ったのでありますが、会場の出口に私が、光昭先生に会わせて頂き、まわりにはたくさんの合楽教会の信者さんに囲まれて、講演会の感動をそのままに語り合い、そして私が「おかげの泉」によって御育て頂いておることを、涙ながらに御礼を申しておるところで、ハッと生気に返らせて、返ったのでございます。
 御礼の手紙を書かして頂こうと、机の前に座らせて頂いた束の間のことでございます」まだ色々書いてございます。素晴らしいです御夢が、御夢そのものがね、この手紙を書こうとしたらウトウトしたというのです。そしたら束の間に、今のようなお話を、いかに神様が合楽理念により、「おかげの泉」により、沢山の人を救い助けたいというその念願がね、込められておるかと言う言が分かります。ですからどうでもこの方の御夢の中に現われておるようにです。
 私共が本当に合楽理念の行者として、それはここ三、四日言われることはもう願わずにわおられん、すがらずにはおかれんという信心をしなさい。それには自分というものをギリギリにところに置きなさい。そしてくずの子の自分であると言う言が分かった所から、屑の子の可愛いという神様の働きが始まる。「あれは好かん、これは好き」と言う様なこっどん言いよるなら、神様がままになるものも神様が取り上げなさる。今ままになっていないならば、あなたが好き嫌いが多いからだと。
 だから取り上げられたんだと思うて、好きなこと、好かん者を拝んで頂けるような、稽古を本気でなさいと、言ってるわけなんです。そしてなら合楽理念をここにも、合楽理念による信心生活というのを、私の講演の終った後に、また合楽理念による信心生活というものを説いておられて、それこそ何万人の人が感動で、それこそ有難涙をこぼしてから、御礼を言っておることを頂いた、とこう言われるような夢がそのままね、実現するようなおかげを私は頂いてもらいたい。
 合楽の信者自信が、合楽理念の信心を以て信心生活をすることが有難いと言う事にならなければならない。これは金光教浦江教会の来田章、という先生からのお手紙です。ですから、いかに神様が今の大阪のその、この前青年教師でしたけど今度はそん時には、まあ教務所主催というわけじゃないけども、本部に対して手前もあるからと言う様な事で、あの青年教師の方が見えましたよね。今度はそうじゃない、いわば教務所長自身が、自分から乗り出してやってくるとこう言ってるんです。
 そしてその合楽理念を聞きたいと言うて、あのう向こうから日にちまでそして言っておらる。「丁度報徳祭の前の日になるからどうじゃろかと思ったから返事をしなかった」とこう言っておりましたが、「それは前の日だから、あたしが別にどうこうするわけじゃないからいい」と言うてまあ返事を出させましたが、あのその教務所長からの願い出といい、いわゆるこの手紙の内容といいですね。これは本当に私共が合楽理念に基いた信心生活によって、この様な貧相病もなからなければ。
 いよいよ真善美に輝くおかげを銘々が頂かなければね。言うばっかりで家の者がそれを頂き得てないとするならばね、言わば実証を皆さんがして貰わなけば、次の助かりの手がかりが出来んのです。どうしても一つ本気で今日は特にね好かんもんを好きになる稽古を一つ本気で、これは事柄人間食物だけじゃ有りません。全ての点に自分の周辺に皆がおかげ、皆が良か人に見えるような、一つ精進をしなければならんと言う事でございます。
   どうぞ。